2024年04月16日

防長回天史を読む 188(第五編上)第四章 慶応元年春期の毛利氏(その三)

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第五編上 慶応記
慶応元年春期の毛利氏(その三)

(*忠正)公、湯田に至る

○ 諸隊招集

○ 諸隊 会議所

○ 臨時祭

○ 諸隊の請願

○ 旧政府党の禁錮

○ 砲発解禁

○ 三大夫の家を興す

○ 干城隊 復興

○ 諸隊の定員および屯所

○ 三支候の来集

○ 武備恭順の藩議

○ 時務に関する二支候の書

○ 両公の答書

○ 幕府への報告

○ (*忠正)公の帰萩

○ 高杉 伊藤の洋行計画

○ その長崎行

○ その馬関開港論

○ その帰藩

○ 対馬事件


(*忠正)公は、既に罪を引いて宗廟に謝し、士民に諭告し、まさに山口に赴こうとし、2月27日、萩城を発し、大谷・明木・絵堂の諸村を過ぎ、両軍の戦闘の跡を視て、大田に着する。
老臣・毛利 伊勢、井原 主計、山田 宇右衛門、兼重 譲蔵、玉木 文之進、佐伯 丹下、榎本 隼人などが、これに従う。
(*忠正)公は、代官以下、郡吏を召し、親しく民間の疾苦を問い、諭すに救恤(きゅうけつ・*救済)を加えるべきにより、又、在住の諸士を召し、告げるに正義の旨を失ってはいけないことにより、毛利 伊勢、井原 主計、山田 宇右衛門、玉木 文之進は、さらに(*忠正)公の意を別席に申明する。
この日、小笠原 弥右衛門[謹慎]、玉木 彦輔、佐世 八十郎、太田 市之進、赤川 敬三[戸主預け]、佐々木 男也、福原 三蔵[戸主ならび親類預け]の罪を免じる。
(*2月)28日、(*忠正)公は、大田を発し湯田に着し、別邸に入る。
鎮静会議員 数十名は又、追随して来て屯する。
(*忠正)公は、諸隊の長官を引見する。
毛利 幾之進、福原 駒之進、堅田 健助、国司 健之助、山内 梅三郎などが来たりて、起居を伺い、都濃郡鹿野に駐屯する膺懲隊は、(*忠正)公の国乱を鎮定して山口に帰るのを賀し、神符および餅、避けを献じる。
3月朔日、(*忠正)公は、なお湯田に在り、徳山候に使を遣わし、起居を伺う。
諸隊招集
(*3月)2日、令を下して諸隊を山口に招集する。

【*以下、原文意訳】
(令文)
殿様が仰せ聞かされるの旨、これ有るので、諸郡へ出張の諸隊は一先ず(ひとまず)、山口へ引き取るよう仰せ付けられ、もっとも大谷・松本辺りへ出張の部は、御差図、これ有るまで引き取るに及ばぬ事。
但し、両大津辺りへ出張の部は、遠い郡の事に付き、吉田辺りへ引き取り、総督中は計り、山口へ罷り越すよう仰せ付けられるに付き、都濃郡の以東の部も遠い郡の事に付き、孰れも(いずれも)総督中は計り、山口へ罷り越すよう仰せ付けられる事。
    【*原文意訳・以上】 



(*3月)3日、(*忠正)公は小郡地方を巡視する。
同日、山口代官役に命じ小学舎を再興し、寺院を黌舎(*校舎)に充て、諸士以下が出でて、業を受けさせる。
諸隊 会議所
(*3月)4日、(*忠正)公は軽装で湯田に至り、高田殿 [ 井上 五郎三郎の家であった。
往きに増築して条公の館に充て、高田御殿と称したのであった。] を定めて諸隊会議所と為す。
すなわち、村田 次郎三郎、山縣 九右衛門を諸隊総会計用掛と為し、波多野 金吾を手当方用掛と為す。
臨時祭
(*3月)5日、霊社の臨時祭を多賀神社・城内遥拝場で行う。
萩野臨時祭に際し、参拝の命が諸隊に及ばないことによってであった。
(*忠正)公は、親ら(みずから)式場に臨み、士卒に諭告することは、萩の例による。
祭事は、毛利 伊勢が(*忠正)公に代わって、これを修める。
この日、長府・清末の二候は、山口に至る。
(*3月)6日、(*忠正)公は諸隊会議所に臨み、事を議す。
この日、毛利 伊勢を萩に帰す。
(*3月)7日、(*忠正)公は高田殿に至り、長府・清末の二候と共に諸隊兵を招集し、親しく諭告するところがあり、萩に在りては、この日、鎮静会議員・湯原 次郎を南明寺に屯集の御楯隊に遣り、その状況と視察させる。
諸隊の請願
(*湯原)次郎は、帰り報じて、云うには、諸隊三条の請願[ その一、世子が諸隊を率いて山口に至ること。
その二、反対党を処するために(*3月)12日を記し、特に吏員を山口に差し遣わすこと。
その三、世子は反対党を処分することを諾し、(*忠正)公に弁解せられること。
これなり。] は、一つも採用されないことにより、まさに進んで城に入り、進言するところがあるとする。
そして、御楯隊総管・太田 市之進は書を上りて、鎮静することが出来ない旨を陳する(*述べる)。
政府は、すなわち、直目付・木梨 彦右衛門に、往って(*行って)これを鎮撫させて又、世子の命により、毛利 伊勢、毛利 筑前を召す。
二人は皆、病により辞す。
旧政府党の禁錮
この夜、直目付・楢崎 殿衛は、(*忠正)公の旨を齎し(もたらし)、山口から帰る。
諸隊は又、遂に城中に迫らず、まさしく椋梨 藤太などを暫く(しばらく)老臣の家に錮(*禁錮)し、これを糺問することに決したことを知るに由る(ものであった)。
(*3月)8日、椋梨 藤太・中川 宇右衛門・進藤 吉兵衛を宍戸 備前に、村岡 伊右衛門・三宅 忠蔵・工藤 半右衛門を毛利 筑前に、小森 市郎右衛門・小倉 半右衛門・木村 松之丞を毛利 能登に、小倉 源五右衛門・山縣 与一兵衛・岡本 吉之進を毛利 出雲に、神代 秀之助・平川 清作・小川 八十槌を毛利 豊之進に、椋梨 甲太郎・南 新三郎を粟屋 帯刀に、児玉 久吉郎を佐世 仁蔵に、中井 栄次郎を柳沢 備後に択保し、木村 駒太郎を揚り屋[士民の獄を称する。]に錮(*禁錮)する。
又、山縣 九右衛門 [親類預]、井上 聞多 [戸主ならび親類預]、石川 小五郎 [親類預]、梶山 三郎助 [同上]、野村 靖之助 [半間預]、山縣 狂介 [同上]、時山 直八 [同上]、林 半七 [同上] の罪を免じる。
[ 当時の政府は一変したことにより、記録が紛乱する者が多く、壮年の有志が士罪を蒙るが、前政府の専断に出る者があった。
あるいは、その厳命を蒙る前に隠匿したために、自ら、これを知らない者がある故に、新政府は、未だ、罪を免じない者があり、山縣 九右衛門などの如きが、これであった。]

(*3月)9日、(*忠正)公は湯田を発し、鯖山を経て宮市に至り、郡中の農商兵を大専坊に招集して、謁を賜い、親しく諭告するところがあった。
終えて三田尻に至り、行館に駐する。
同日、井原 主計、玉木 文之進に都濃・熊毛・上関・大島郡などを巡回し、(*忠正)公の旨を伝告し、民間の疾苦を問わさせる。
[この月(*3月)24日、山口に帰る。]

砲発解禁
(*3月)10日朝、(*忠正)公は三田尻講習堂に臨み、諸生の肆業(しぎょう・*店)を見、午後、郡中の諸兵の操練を鞠府松原に見る。
長府・清末の二候および毛利 幾之進、福原 駒之進、浦 靱負[(*3月)3日に山口に来ていた。] などが、これに陪する。
この日、小田村 素太郎、滝 弥太郎、天野 謙吉、渡辺 伊兵衛、中村 文右衛門、山縣 半蔵、山田 七兵衛、佐々木 次郎四郎の謹慎を免じる。
毛利 伊勢は、胸痛に托し、書を上り、その職を辞すことを請う。
(*3月)11日、(*忠正)公は三田尻を発し勝坂関門を経て、守衛兵および八幡隊などの操練を見、山口に帰り、始めて旧館に入る。
徳山の世子、毛利 平六郎が来て、謁し、菓子一筺(はこ・*箱)を献じる。
(*3月)12日、(*忠正)公は長府の家老・西 小豊後、用人・村野 勝左衛門、粟屋 族、徳山の家老・福間 大炊、福間 式部、用人・桜井 新左衛門、清末の家老・平野 郷右衛門、用人・片見 小次郎、渡辺 与右衛門を召し、親諭するところがあった。
(*3月)13日、村田 蔵六を手当掛 兼 兵学校用掛と為す。
[ 村田(*蔵六)は幕府開成所に出任中、一昨年、暇を乞うて帰藩し、遂に復た東帰しなかった。]

(*3月)14日、長府・清末の二候が来て謁する。
三大夫の家を興す
この日、故三大夫の家を興し、益田 精次郎を右衛門介の後を襲(つ)がさせて、年、なお幼いなるにより、毛利 筑前・益田 石見に、これの後見をさせたのであった。
(*そして)福原 駒之進に越後の後を襲(つ)がせて、幕府の嫌疑を憚り(はばかり)、三家に各々、祖先の家名に従い、益田を御神本(みかもと)、福原を鈴尾、国司を高田と改称させる。
又、曩に(さきに・*以前に)護送ならびに自裁に関し功労ある者・志賀 兵助、重見 田仲、村上 太左衛門などを賞する。
事が矛盾するが如しと云えども、(*忠正)公の意は、藩内の両派の調和を計るにあることによる。
正義派諸士の罪を免じるに漸(しだい)によるのも、又、このためである。
この日、この日、清水 清太郎の父・美作(*養父・清水 美作親春のこと。実父は清水 図書信篤である。)の退隠[ 曩に(*以前に)(*清水)清太郎の罪に坐したものである] を免じ、尋常(*普通)の退隠に準じ、高杉 晋作(戸主 預)の罪を免じる。
(*3月)15日、徳山候が山口に来る。
桂 兎三、佐伯 太郎左衛門を萩野隊総管と為す。
干城隊 復興
これより先(*以前)、鎮静会議員は書を上り、干城隊を復興することを請う。
この日、これを許し、鈴尾 駒之進を その総督とし、佐世 八十郎を その頭取を兼ねさせる。
これより、世禄の士が陸続きに、これに加わり、諸隊と相、並び、世禄隊・有志隊の称が起こる。
諸隊の定員および屯所
そして、当時、有志の諸隊は、人員に多少ありと云えども、有志の団結が処々に起こり、各々、隊名を称し、その総員は頗る(*非常に)多く、一々、これを給与、継続するのは、藩庫は、まさに、その資に堪えられない故により、有志の諸隊は、御楯・鴻城・遊撃・南園・膺懲・奇兵・八幡・第二奇兵・集義・萩野の10隊とし、各々、その駐屯地を定め、その他は皆、解体するものとし、御楯以下の諸隊も各々、その人員を定め、総員を限って1,500とし、超過の人員は、これを減少させるものとした。
(*3月)16日、諸隊総管を政事堂に召し、これを諭告する。
しかしながら、解散を命じられた隊は、藩国の危機に際し、解散は素志に、あることはないと弁じ、継続を請うものがあった。
又、10隊の人員も減少していることがあり、この年の5月に至り、400任の増員を許し、四境戦の時に及んでは数田の新隊を現出し、海内(*国内)の兵に当たり、よって四方に耀(かがやか)せたのであった。
[ 事は諸隊沿革の章で詳らかである。]

(*3月)17日、徳山候が、(*忠正)公に謁する。
同日、三支候の家老および用人を召し、直目付・杉 孫七郎、柏村 数馬によって告げる他に恭順を尽くし、内に武備を厳にして藩内の一和を保とうと欲するの旨によってする。
これにおいてか、武備恭順の反論が定まる。
三支候の来集
(*3月)18日、三支候が復た、来て謁する。
(*3月)19日、毛利 平六郎は明日、まさに徳山に帰ろうとするにより来たり、謁する。
同日、(*忠正)公は明倫館に臨み、生徒の文武の修業を見、又、好生館に至り、その業を見る。
(*3月)20日、山内 梅三郎を干城隊総督見習 兼 奇兵隊総督と為す。
(*3月)21日、守永 吉十郎に萩野総管を命じ[ 総管・桂 兎三、佐伯 太郎左衛門が協議する]、山口明倫館の代官所の所属を改め、萩明倫館の所轄と為す。
時務に関する三支候の書
(*3月)22日、世子が萩より至る時に、長府・徳山・清末の三支候は、皆、山口に在り、時務の要を(*忠正)公に質そう(ただそう)と欲し、(*3月)18日に書を裁して(*忠正)公に呈する。

その文に、云うには、
【*以下、原文意訳】
三支藩主伺書
一 先達て、仰せ出させる三事の御大典を御確定遊ばされる儀は、もちろんでありますけれども、御忠節、御信義、御孝道、何れの廉にて凛然、相、立つべきと申すかな、との事。

一 防長二州において、当今の形勢は、先ず割拠の姿に相、成ります。
就いては、所謂(いわゆる)外に恭順、内に武備を充実を旨とし、領民へ布告し、方向を知らさせたい事。
但し、右(*上)の辺りの実行を如何、相、心得申すべきかな。

一 御国是の御確定は、御政令が一途に相、成る上は、御軍制、且つ、諸隊が平常の御規約書を拝見仕りたい事。

一 諸隊の分配ならび浪士の始末を承り置きたい事。

一 諸藩へ使節の往復の儀は、何れの藩にても、御故障の筋、これ無きかなの事。
但し、礼譲(れいじょう・*礼儀正しくへりくだった態度をとること) を厚く相、心得るべく事。

一 他国人が領内を通行、あるいは休泊の儀は、旧に(*以前)より差し障りを仰せ付けられるかなの事。

一 諸廻船が入津(*入港)などの節、諸事、粗忽が、これ無き用、取り扱い為すべく申すけれども、異船が入港、上陸などの節、一時の講和の御権謀を旨とし、且つ又、同様に取り扱うべきかなの事。

(*忠正)公は、これを熟覧し、世子が来るのを待ち、共に議定するところあり。
武備恭順の藩議
すなわち、答書を裁し、(*3月)23日、三支候を召し、これを示す。
これにおいてか、毛利氏が執るところの主義は、確然、一定する。

その文に、云うには、
【*以下、原文意訳】
敬親の答書
第一条
当時、上国(じょうこく・*都に近い国々)の模様にては、何社が朝廷の御為に御尽力成されようにも、これ無いけれども、御正義を変わり成されず、御立ち抜き成される儀は、御忠節に、これ有るべくと存じます。
御信義の儀は、これ又、当時勢で御尽力遊ばされるようござい無く、もっとも、これまで数度の御建白を成される儀は、征夷が府の職掌を尽くされ、永く諸藩に長として、御隆盛、在らせられたいとの御趣旨で、第一、皇国の御為とは申しながら、すなわち、徳川家への御信義に、これ有るべく、右(*上)の両条を相、行い得れば、すなわち、御先祖様の御遺旨の機を為され、御孝道に随いて、相、立つと申すべく存じます。
この往き(*先)、とても その路を相、開け得れば、右(*上)の両条とも御尽力の儀は、時宜の計らい振りも在らせられるけれども、これまで、数度の御艱難を御冒し(おかし・*敢えて行い)、御心労 成され、御国力をも御尽くし成される儀に付き、この余は即今(*
現在)の通り、御恭順に在らせられ、内は人民の御撫育、衆心一致、富国強兵の御処置にいり、外は侮り(あなどり)を請けられるぬよう、御手を著される(あらわされる)儀に、これ有るべくと存じます。

第二条
両公の答書
忠正公父子から三支藩への返答
御同意に存じます。
もっとも腰書の趣に付いては、御誠意・御恭順は、これまでの通りにて変わらず為されます。
武備充実は、藩屏の御職掌に付き、用いる兵学は、ますます隆盛で、大小銃の調練、要衝の地の軍配などを置かれ為される儀、すなわち、他日(たじつ・*後日)の敵愾(てきがい・*君主の恨みを晴らそうとすること)の御準備にも、相、当たるとの御取調べなので、右(*上)へ準じ、御処置を相、成りて然るべくと相、見えます。
且つ又、御国民へ方向の示諭のため、この度、井原 主計、その他を外回り郡を仰せ付けられます。

第三条
御軍制の儀は、近年、追々御補の趣により、御規則を立ち冒され得ても、なお追って御改正をも仰せ付けられべくと存じます。
諸隊の規約書の儀は、当節、詮議中に付き、近日の内に御披見、入れられるべくと存じます。

第四条
浪士の始末の儀は、ただ今、残らず解散と申す訳にも運ばれ難く、これまで諸隊の人数中に罷り居る儀に付き、先ず当分の行形のところを差し置かれて、追って始末を就かれて然るべく、もっとも隊中規約に入らぬ儀が、これ有り得れば、即時に解散申すべく仕ります。
諸隊分配は、別紙の通りであります。
(*この浪士始末の諸隊分配の別紙は、本文では略されている。)

第五章
御親姻の諸藩は、格別の儀にも、これ有るけれども、当今の時勢に付き、重大な事件にて、列藩へ御使者の往復の儀は、御本末(ほんまつ・*物事の始めと終わり)の間の儀に付き、御相談の上、御取扱い、これ有りたく存じます。
腰書の趣は、御同意に存じます。

第六章
他国人の通行、休泊など差し障り、これ無き儀であるけれども、当、時勢に付き、諸関門、又は口々の番所などにて取り糺しの上、もし不審体の儀も、これ有れば、その所へ留め置き、最寄りの役所へ申し達し、差し図を受けるべく存じます。
もっとも留置とも、諸事、丁寧に取り扱う儀は申すに及ばなく存じます。
且つ又、城下へ止宿の儀は、なるだけ、相、断り申すべく存じます。

第七章
御同意に存じます。
もっとも異国人の儀は、言語普通の国柄に付き、纔か(わずか)な意味の違いより、不法無礼な所業に出来るに及ぶ儀も計り難いに付き、右(*上)のような節は、彼の船将が委細、応接に及び、曲直(きょくちょく・*を形や線が曲がっていることと、まっすぐなこと)相、糺すべく申すと存じます。
    【*原文意訳・以上】 



幕府への報告
これより先(*以前)、竹中 織部、林 良輔を岩国に遣り、諸隊鎮静の状を告げ、先霊に告げた(*忠正)公の誓文および諸隊人員の屯所の規定を示し、並びに、(*吉川)監物の来山(*山口へ来ること)を促し、又、幕府に上る報告を齎らさせる。
まさしく、吉川 監物に嘱し、芸藩を介して、これを幕府に致させるためであった。
この日、(*林) 良輔は岩国の使者と共に広島に抵り、これを交付する。
[ 吉川周旋記によれば、竹中 織部は諸隊の部署を報じるに在りて、幕府に致すところの上報書は、林 良輔が岩国の使者・井上 司馬太郎と共に、これを齎し(もたらし)、(*3月)23日、岩国を発し広島に至る、とある。]

【*以下、原文意訳】
(報告書)
私領内の長門国美祢郡伊佐村辺りに屯集の諸隊の者が、鎮静の人数を差し出すの段、先達ての御届に申し上げの通りにございます。
然るところ、少々、争闘に及ぶ儀が、これ有るけれども、追々、説得致し、先ずは鎮静仕るに付き、彼の者共の鎮静の処置が行き届くように仕りたく、且つ、国民の撫育(ぶいく・ *常に気を配り、大切にそだてること) のため、この度、彼の地まで罷り越しました。
蟄居に罷り在る折柄、出行仕る段、恐れ入り奉るけれども、止むを得ない儀にございますので、この段、聞き召され置かれ下さるべく存じます。 以上
   3月   毛利 大膳

(吉川氏の添書)
本家・毛利 大膳の領分の者が鎮静を取り扱いを治定、相、成る段は、先達て、御届け申し上げ置きました通りでございますところ、追々、説得致し、先ずは鎮静仕るに付き、いよきよもって、右(*上)の処置が行き届くように仕りたく、但し、国民の撫育のため、蟄居中に恐れ入り奉りますけれども、出行仕る段、この度、(*毛利)大膳より申し上げる由、使者が申し越すに付き、この段、私よりも御届け申し上げます。以上
 3月23日  吉川 監物
    【*原文意訳・以上】 



(*忠正)公は、内乱の後を承け(うけ)、務めて力を藩政の整理に尽くし、且つ、国内の一和を計ることを欲し、既に、二支候を招き、又、吉川 監物を招く。
(*吉川) 監物は病により、未だ至らず、(*3月)24日、三支候は山口を発し、各々、その邑に帰る。
(*忠正)公は、世子と美弥の原に往き(*行き)、大砲の打発および地雷火装機の試験を見る。
(*3月)25日、(*忠正)公は世子と共に老臣を随へ教練上に臨み、諸隊兵の銃隊操練を見る。
後、諸隊総管および司令士を召して、これに諭告し、且つ、酒を諸兵に賜う。
同日、太田 市之進に干城隊頭取を命じ、御楯隊総管を兼ねさせる。

*太田 市之進、慶応元年のこの年、太田市之進から御堀耕助に改名する。
御堀耕助邸
山口史蹟概覧(昭和11年)より
IMG_5912 ●御堀耕助邸 山口史蹟概覧.JPG

(*忠正)公の帰国
時に(*忠正)公は世子と共に山口に在り、(*忠正)公の滞留は、既に久しきにより、(*3月)26日、(*忠正)公は山口を発して萩に帰る。
諸隊は、頻りに(*忠正)公が、なお山口に留まることを請う。
(*しかし)允さず(*許さず)、これにおいて、隊兵百人は(*忠正)公を護して萩に至る。
老臣・志道 安房、毛利 将監、井原 主計および鈴尾 駒之進は又、萩に帰り、波多野 金吾、佐世 八十郎は、命を奉じて山口に留まる。
同日、願いによりて桜井 慎平の集義隊総管を免じ、佐藤 新右衛門を、これに代える。
(*3月)27日、(*忠正)公は、西の浜教練場に臨み、諸隊の銃陣操練を見る。
(*3月)28日、これより先(*以前)、村田 蔵六を上海に赴かせ、敗残の壬戌丸を外国人に売却させる。
しかしながら、幕府に憚るところがあり、この日、村田 蔵六に、その沈没した旨を上報させる。
[ 奇兵隊日記、2月9日の条に、壬戌丸を夷人へ売却のため今日より当地へ出帆の上、上海辺りまで罷り越す事、と見える。]

(*3月)29日、往きに内乱の時に方(あた)り、死傷した選鋒隊士を救恤(きゅうけつ・*救済)する。
高杉 伊藤の洋行計画
その長崎行
この月(*3月)、高杉 晋作、伊藤 俊輔は感じるところがありて、まさに西洋に航(*航海)しようとし、長崎に赴く。
既に至れば、イギリス人・グラバラウタ(*グラバー)などが二人に説いて云うには、新任のイギリス公使・バークスは、当今の一傑士である。
まさに日ならずして、この国に来たらんと、する。
これと相、結んで事を謀れば、王政快復の業は又、容易に遂げることを得る。
且つ、今や到底、鎖港により国を立つべきの時ではない。
寧ろ(むしろ)、長藩が自ら進んで馬関を開港するの快挙に出るに若かず(*越したことはない)。
今の時は、卿などが国を去り、外国に赴くの日に、あらざるなり(*赴く日ではない)。
卿などに意があれば、新公使に紹介し、これにより画策するところがあるとする、と。
高杉 晋作は、山口の出立前から既に馬関開港の意見を抱いていた[ 後掲の(*高杉 晋作の)書翰を参考。]。

グラバーの説を聞くに及び、二人は直ちに、これを然りとし、翻然として西航の念を抛ち(なげうち)、馬関開港論を持し、幕府に謀るところがあると欲し、再び、相、携えて、長崎を去って帰藩する。
案ずるに(*考えるに)、3月24日、二人に英学修行と時勢の捜索を兼ね、横浜行きを命じたことが、藩記に見える。
これ、外国行きは、公然、命じ難きにより、仮に、この名称を設けたものと知れる。
二人が馬関を発したのは、この前、若干(*少し)日間(にっかん・*一日の間)があったのであった。
二人が開港論を持して帰藩し、その儀が行われず、高杉(*晋作)が再び脱藩するに臨み、4月14にち、山縣(*狂介)に遺した(のこした)書翰があるのを見れば、二人が長崎から帰るのは、3・4月の交(*間)であろう。  
二人の洋行の目的は、要するに西洋の事情を探求し、他日、大いに為すところがある、とするに在り、左(*下)に伊藤(*博文)、井上(*馨)二老の談話および高杉 晋作の書を掲げる。
高杉(*晋作)の回復の私議は、今、散逸し、惜しむべきである。

【*以下、原文意訳】
(伊藤の談話)
高杉 晋作、総督に推される
[ この談話中、「回復云々檄文」とあるのは、高杉(*晋作)の回復の私議を指すものである。]
到頭(とうとう)政府を又、転覆してしまって椋梨 藤太などが、今度は逆様(さかさま)に首を斬られた。
それから同志のものが、残らず山口へ集まって来た。
ところで、彼の書き付けは、どうなったか知らぬが、回復とかなんとか(*これは高杉晋作が起草した回復私議を指す)云う名を付けた檄文を、高杉(*晋作)が書いた。
吾輩も大分書いて誓書をしたと思うて居る。
それから前原(*一誠)も来て居る。
井上(*聞多)も来て居り、又、諸隊が皆な絡まったから、誰か総督が出来なければならぬが、自づと(おのづと)、高杉(*晋作)が推されて、総督となるべき訳になった。
高杉 晋作、伊藤 俊輔を洋行に誘う
そうすると、一日、高杉(*晋作)が妙な男で、范蠡(はんれい・*中国春秋時代の越の政治家・軍人)が勾踐(こうせん・*中国春秋時代後期の越の王。)は艱難は共にすべき人であるが、艱難は共にすることが出来るが、富貴は共に出来ない人である、云うことを言った。
総て(すべて)人と云うものは、艱難は共にすることが出来るが、富貴は共に出来ぬ。
どうか外国へでも出たいと思うが、君、一緒に行ってくれぬか。
それは、よかろう。
それでは、今、これが洩れては成らぬ。
兵隊などに洩れると大変であるかから、これは井上(*聞多)と前原(*一誠)だけに諮(はか)ろう、と云うので、密に両人に相談した。
又、あとの世話は、お前などがやってくれと云うので、両人共、承知してくれた。
そこで、井上(*聞多)や前原(*一誠)が心配して、金を三千両、拵えて(こしらえて)くれた。
両人、馬関へ向かう
これで宜しい。
行うと云うことで、それから馬関へ遠乗りをすると云うことにして、二人でヅーと(ずうっと)馬関へ来て、戦争をした揚句だから、暫時、朝臣んで行うと云うことで、高杉(*晋作)と二人で馬関の網与と云う別荘がある。
その所へ入って居った。
そうすると、野村 靖が何時でも、ヤア、ヤア言って出る男だが、やって来て、どうも今日、お前達が外へ出るなどと云うのは、怪しからぬ。
これから跡(後)は容易ならぬ、と云うようなことを色々、言うた。
野村 靖、同行を希望
高杉(*晋作)は相手にならぬものだから、吾輩(*伊藤 俊輔)に向かって言う。
どうしても肯(うなづ)かれなければ、腹を切らなければならぬと言い出した。
高杉(*晋作)は、どう思ったか、眠ったと思っていたら、眠らずに居ったと見えて、起きて来て、君、腹を切るなら、乃公(だいこう・*男性が、目下の人に対して、または尊大に、自分をさしていう語)が介錯してやろうと云うようなことで、始末が付かぬようになったところで、野村(*靖)が、己れ(おのれ)も連れて行ってくれと云うようなことを言い出した。
到頭(とうとう)、言いじらけて(*言い白けて)その話は、止んでしまったが、その中に井上(*聞多)が又、出て来て、到底、これでは、いかん。
却って兵などは驕ったり(おごったり)、何かして始末が付かぬと云うようなことを歎いて(なげいて)出て来たが。
両人、長崎に至る
それから直きに(じきに・*すぐに)、長崎へ高杉(*晋作)と二人で行って、長崎から洋行するつもりで、長崎に「グラバ(*グラバー)」がいたから、そこへ行って外国船に乗って、向こう(*外国)へ行きさえすれば宜しいから、と頼み込んだ。
その時に副領事であったか、通弁であったか、横浜に「ラウダ」と云う男が居った。
これも来て居って、その家に二人が居って、英語の稽古などをして居った。
長崎から引き返す
そうすると「ラウダ」と云う男が、外国人の連中と相談をして、足下(*貴殿)などは、今日、洋行すべき時機ではない。
事、そのこと、長州が独立して、馬関に港を開いてはどうだ。
今度、英吉利(イギリス)から「バークス」と云う公使が来る。
これは傑い(えらい)男で外国の信用も厚いから、これと商議をして、馬関に外港を開いてはどうか。
それは面白い話だと云うことで、それから皆が寄って、「バークス」へ遣る書面を作ろうと云うことで、外国人連中が書面を拵え(こしらへ)たりして、もう一遍(*一度)帰って、そんな事を謀って見ようと云う考えになって、高杉(*晋作)と二人で帰った。

(井上の談話)
最初、私などが外国から帰ったときに、高杉(*晋作)は聡明な人間だから、色々話をすると如何にも攘夷と云うことは出来ぬと云うようなことで、牢の内に居るときに、その事は私が行って話をした。
そうして、高杉(*晋作)が言うに、如何にも、そうだ。
戦争をするには、彼を知り、己れをしらなければならぬと言うので、内訌戦が済むと外国へ行こうと云うことになった。
その時、私も一緒に行こうかと云うたが、それでは、あとが困るからと云うので、高杉(*晋作)は、伊藤(*俊輔)と一緒に行くと云うので、前原(*一誠)へ手紙を書いてやった。
それで私は、政府の方へ、その事を話したが、今、公然と外国行きを仰せ付けられると云う訳にはいかぬが、そこは以心伝心で、金は出すが、公然とは、いかん、と云う話しだ。
君公も、もちろん、その時に承知であった。

(高杉(*晋作)の書)
その馬関開港論
[ 書中に、馬関に赴くと称するのは、洋行を名言しているのである。
この書の高杉(*晋作)の抱負の雄大さを見るべきである。]
高杉晋作の心境
外患内憂、互いに切迫の時勢に付き、諸隊中にても隊長などは申すに及ばず、伍長、伍尾衆に至るまで、深く心を用い、少々の不平は耐え忍び、これ有りたい事ならん。
萩表の様子を察するに、既に政府一新、干城隊も確たること故、内慮をも消滅する儀は、政府、諸君子、干城隊の諸壮士に任じ置き、諸隊の者は手を分け、外患を防禦する事が急務ならん。
愚按(ぐあん・*「わたしが考えるのに」の意)には奇兵隊は赤間関、遊撃軍は花岡、高森の間、八幡隊は山代、膺懲隊は徳地、南園隊は奥阿武郡、御楯隊は舟木、小郡の間、その他、熊毛の南奇隊、三田尻の忠憤隊、小郡に集議隊、馬関の第二遊撃軍、舟木の第二御楯隊など、事が有る事に付き、分け合うの式は、大将の次第にて、如何様な処置もこれ、あるべし。
四隣の群集の賊兵は懼れに(おそれに)足らない。
この上に、蒸気軍艦を御買い得、相、成れば、九州口の兵を小瀬川・石州口に移せば、もっとも妙、ならん。
諸隊へ入費などの儀は、廟堂の君子は、既に、良い謀り事が、これ有らん。
無用の高位の士の禄は、殺ぐ(そぐ)より他の述は無からん。
赤間関も我、断然、国体を愧じぬよう開港すべし。
そうでなければ、幕薩(*幕府・薩摩)は、申すに及ばず、遂には外夷の妖術に陥るならん。
五大洲中へ防長の腹を推し出して、大細工を仕り出さねば、大割拠は成就に至らずならん。
干城隊は日に盛んになり、民心は日に鎮静するよう、諸隊の者から心を添えるよう、これ有りたいならん。
委曲(*詳細)のところは、赤間関より申し上げたく存じます。為右拝白。
    23日(*慶応元年3月)

その帰藩
なおなお私事も、馬関の佐世氏より急用に付き、相、越すように申し来たに付き、寸渡(ちょっと)罷り越します。
留守の儀は、万端、宜しく御頼み申し上げます。
五大夫、その他のところ、なおさら、御頼み申し上げます。
回復の私議の御一覧し、御評を下さるべく存じます。
拙著(せっちょ・*つたない著作)を調え(ととのえ)、馬関より又々、差し出すべく存じます。 以上
       東洋一狂生 東行 拝
 大田 市之進 様
 佐々木 男也 様
 山縣 狂輔  様
 交野 十郎  様
 福田 良輔  様
 林 半七   様
 堀 真五郎  様
 赤川 敬三  様
  その他 諸君
     【*原文意訳・以上】 



対馬事件
当時、対州に又、内訌(*内戦)の事があった。
佐幕派は、大いに勤王派を窘め(たしなめ)、平田 大江の父子などは又、大いに危うし。
2月28日、(*忠正)公は、児玉 若狭・飯田 小右衛門を正副使と為し、往って(*行って)
これの救護に力め(つとめ)させる。
児玉 少輔、天野 勢輔が、これに従う。
[ その前、野村 靖之輔は同志と相、謀り、同月(*2月)9日、山口を発し、芸州行の途に上り、(*2月)11日、馬関を発したのであった。]

案ずるに(*考えるに)、対州藩にて彼の継嗣(けいし・*あとつぎ)問題の時に方(あた)りては、勝井 五八郎、平田 大江などは均しく(ひとしく)善之允(対馬藩主・宗 義達)派であるが、その志を得るに至り、勝井の外戚の親に籍り(かり・*借り)、頗る威権を弄し、且つ、佐幕論を主張する。
*対馬お家騒動(田代騒動)については、
「鳥栖市史研究編 第二集 幕末 田代領政争の研究 -仙八さん騒動の顛末‐」 
九州大学教授・山田達雄(昭和45年3月)に詳しく興味深いものがある。
ウェブで「 」内で検索・PDFファイル/24MB で見られます。

藩内の勤王党は、大いに、これに反抗し、勝井(*五八郎) を刺殺しようとする勢いがあった。
勝井(*五八郎) は、その鋒を避け、藩用に托して京都に上り、幕吏と結託して計画するところがあった。
その年7月に京都の変があり、勤王党が逆境に陥る。
勝井(*五八郎) は、その機に乗じ、反対派を抑圧しようと欲し、9月下旬、京都を発し、国に帰り、対州の府中に上陸すると、兵器を挟んで城に入り、幼主を擁して命令を出させて勤王派の首領・大浦 教之輔、幾度 八郎[共に家老]を始め、その同志100余人を逮捕し、あるいは、自刃を命じ、あるいは、斬罪に処し、残虐に至らぬことがなかった[10月から12月に至る]。
平田 大江は、肥前田代の対州領に在り、府中の報を聞き大いに憤慨し、兵を挙げて回復を謀ろうと欲し、同志60余人を糾合(きゅうごう)することを得た。
時に、北畠 四郎・里美 二郎が九州連合の説を持して、長州から九州に巡遊し、田代を過ぎ(*平田) 大江のこれと面晤(めんご*面会)する。
既にして、翌、慶応元年正月2日、二人は再び田代に至る。
平田(*大江)は二人に告げるに、藩情により、その助力を求める。
北畠(*四郎)などは、すなわち、筑前・平戸・大村・薩摩の諸藩ならびに三条卿などを暦説し、平田(*大江) 父子の挙を援助することの同意を得たのであった。
よって、2月初旬、平田(*大江)は多田 荘蔵・里美 二郎と共に馬関に来たのであった。
(*そして)村田 蔵六に面して長藩の援助を請う。
村田(*蔵六)は、(*平田)大江などに指授し、山口に往って(*行って)山縣 九右衛門に謀らせる。
藩議は又、その請(*要請)を容れ、遂に児玉(*若狭)、飯田(*小右衛門) などを派遣するに決する。
平田(*大江)は大いに喜び、諸藩の使節と3月20日に、壱岐・勝本港に会するを約して去る。
児玉(*若狭)、飯田(*小右衛門) などは、2月28日に使命を拝し、幾も無く馬関を発し、三条ならびに薩摩・筑前・平戸・大村の四班の使節と勝本港に会し、相、前後して府中に至る。

~~~~~~~~~

(*以下)文章上の【脚注】
(追補)
長藩使節は、3月朔日、萩を発し、(*3月)10日、馬関を発し、(*3月)13日、勝本港に着し、(*3月)21日、一行中の児玉 少輔・竹田 航太郎を密に(ひそかに)対州に遣り、動静を探らせる。
4月6日、二人は勝本に帰り報告する。
これにおいて、諸藩使節などが相、前後して対州に入る。
(*これについては、)児玉 総兵衛日記に詳らかである。
第六編上 補遺(569頁)を見よ。

(*以下)【第六編上 補遺】
一、第五編上 105頁以下、数頁に渉る対州藩内訌に関する記事中、さらに新材料を得たので、ここに追記する。
児玉 総兵衛日記によるに[総兵衛は少輔の父であり、当時、萩に在ったが、少輔の書翰などにより記したものであった。]
長藩使節・児玉 若狭・飯田 小右衛門の随員には、児玉 少輔・天野 勢輔の他に福原 亀太郎・河野 隼太・竹田 航太郎・吉津 庄蔵・山田 熊之助もあり。
使節は3月朔日、萩を発し、その(*3月)10日、往久丸に乗じて馬関を発し、(*3月)10日、壱岐・勝本港に着し、同所にて諸藩の使節と会し、3月21日、一行中の児玉 少輔・天野 勢輔を密に対州に遣り、その動静を探らせる。
4月6日、二人は壱岐に帰りて報告する。
各藩の使節は、すなわち相、前後して[児玉 若狭などは、4月8日、壱岐を発航し、即日、対州に着する。] 対州に入ったのであった。
又、毛利家編纂所に対藩関係始末と題する一書がある。
これによると、長藩使節の一行は、長藩からの迎使を承け、5月16日、往久丸に乗じ対州を発して帰藩し、その(*5月)23日、山口に着し、翌日、(*忠正)公に復命し、(*児玉)若狭などは、(*5月)24日、萩に帰る、とある。

~~~~~~~~~

諸藩の使節は、各々、藩主に見ることを求むけれども聴かれず、やむを得ず政府員に面議し、勤王派の罪を獲るものを赦免し、平田(*大江)父子などの帰藩を許さぬことを迫る事は、4月上旬に在り。
対藩政府は、陽に勧告を容れる状を示すも、陰に、これを拒むの意があったのであった。
躊躇逡巡(ちょうちょ しゅんじゅん・*ためらい、決断出来ずに、ぐずぐずすること、)未だ決答せず、たまたま、4月19日夜の夜、勝井 五八郎は藩人の為に殺される。
これにおいて、勤王派の士気は大いに振るい、藩論は、まさに一変しようとする。
平田(*大江)父子は同志を率いて勝本港に在り、報を聞いて踴躍(ようやく・*おどりあがること) し、今日に船を発して府中湾に入る。
諸藩の使節は、反対派を激することを恐れ、平田(*大江)などを説いて船中に謹慎し、猥に(みだりに)上陸することを忽させる(ゆるがさせる)。
既にして、平田(*大江)などの同志は鬱屈(うっくつ)に苦しみ、(*4月)4日の夜、隊伍を結んで上陸する。
野村 靖は情報を聞いて大いに驚き、北畠 四郎[ 三条卿の使節の一行中にあり ]に往かさせて(*行かさせて)、これを止めさせる。
(*しかしながら)及ばず、皆、平田(*大江)の邸に入る。
藩政府は、平田(*大江)などの挙動により、不臣と為し、これを撃殺しようとする。
北畠 (*四郎)などは、その間に立ちて調停の労を執り、僅かに事なきを得たが、反対派の陰謀は、なお、その迹(あと)を絶たず、当局の老臣などは、これを制することが出来ず、余焔(よえん・*炎の一端)は、まさに再燃しようとする。
閏5月に至り、勤王派の諸士は桂 小五郎の勢望(せいぼう・*権勢と人望)を仮りて為すところがあると欲し、切に、その来島を望み、このために藩主から密使を長藩に送る策を講じ、諸士から書を桂(*小五郎)に寄せ、防長の多事を知ると云えども、滞島、10日間を割愛することを請うたのであった。
しかも、自藩の教務は桂(*小五郎)の他行を許さず、且つ、密使は又、期の如く至らず、7月に及び、長藩から多田 辰三郎、井原 小七郎を遣り、薩筑二藩からも各々、使節を派遣し、鎮静の事に尽力したのだが、内訌の根本を絶つことは出来ず、11月に至り、平田父子は、遂に惨禍(さんか・*むごたらしく、いたましい災難)に罹り[ (*平田)大江は暗殺され、(*平田)主米は、自刃を命じられる。]、勤王派の多田 荘蔵などの数人は脱走して長藩に来投したのであった。

*平田 主米は、平田 大江の長男で、実名は尚行、幼名は順一郎。
文武兼備の士で、父と共に尊攘の説を首唱し、その名は父子共に有志の間に重くした。
平田 大江父子については、岡崎 茂三郎編「平田 大江父子伝:対州藩殉難士」明治29年 に詳しい。


次回、(第五編上)慶応記 第五章 慶応元年夏期の大勢 に続きます。


posted by siryo at 19:57| Comment(0) | 全集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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